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被写体の為に写真がある。「関係する」写真。何の為に写真を撮るのか考えてみた話。

2021.09.16

おはようございます。本日は写真は何のためにあるのか?何のために写真を撮っているのだろうか?という話について書いていきます。なぜ写真を撮るのか?真剣に写真を撮り始めた方なら何度も直面し、悩むテーマかと思います。私自身、よく悩んでいたテーマです。

  

写真を撮る目的って様々ですよね。提示された目的を達成するための商業用宣材写真を撮るだとか、コンテストで入賞をするために撮るだとか、日々の記録として撮るだとか。理由は様々かと思いますが、今回は1人のフォトグラファーとして「写真を撮る」という行動をしている時の、より根源的なところについて考えてみました。

 

結論から言うと、「写真は被写体の為にある」というのが最近の考えです。宣材写真を撮るなら、対象がより良い存在に見えるように。コンテストに出すなら、自身の表現と、被写体の力が最大に発揮されるように。記録用なら、被写体と過ごしたその時間を未来へ残すために。機能的な目的はその状況に応じて異なるのですが、全ての状況に共通する根本的にな目的として「被写体にとって最高の瞬間を切り取るために」撮っています。スナップでも作りこみ作品でもそうです。きっと表現したいことは作品ごとに違うのですが、どの作品にも共通して必要な事として、被写体のポテンシャルを最大限に引き出すことが求められます。つまり、私の為に写真を撮るのではなく、「被写体の為に写真を撮ること」。そうすると結果としてベストな写真に近づける、そう言えるのではないでしょうか。勿論、この先誰かの話だったり自分の経験だったりが織り重なってまた変わることかもしれませんが、2021年9月現在はそう考えるようになりました。

 

写真というモノは絵画や音楽と違い、確実に被写体となるオブジェクトと光が存在しなければ形に残すことができません。絵画や音楽は、自分のアタマの中で生まれた一次的アイデアや閃きをインクや音階で二次的に再現することができますが、写真はより即物的です。勿論写真も、自身の頭の中のイメージを状況として再現して形にすることができますが、そのためには「被写体」の存在が不可欠で、各種芸術の中でも唯物的と言うか、どうしても実存するモノと関わりながら写真を残していくことになります。

  

つまり「目の前の情景と関係しながら行う」ことが写真の難しさであり、楽しさでもあり、上達に必要な事なのかなと思います。

  

私がカメラを持ち、写真を撮るときはいつも、「私」対「目の前の世界」の闘いだと思っています。この闘争において、私が自身のエゴを前面に出し被写体と対峙した時、敗北します、自身が満足できる作品も、人を感動させられる作品も絶対に生まれません。「人に評価される作品を撮りたい」とか「映えていて人の目を引く作品を撮りたい」とか、そういった気持ちの時は主観が「私自身」にあって「被写体」に心が向いていないのです。関心が自身に向いている時、言い換えれば被写体へ関心が向いていないから、その良さを引き出せないのです。被写体への関心を持つこと。その最高の一面を引き出すこと。しっかりと向き合うこと。言うなれば「愛情」をもって被写体と接することが大切なのかな、と思います。

  

ここで抽象的な「愛情」ということ言葉を出しましたが、ここで言う「愛情」とは言い換えると「理解しようとすること」と言えます。「自身の主観で世界を見る」のではなく、目の前の「在りのままの存在」をまず受け入れて、その対象の残したい一面を探していくこと。その一面を引き出すために、対象について理解しようとすること。それは目の前の物事と真剣に向かい合う行為で、それは写真撮影のみにあらず、どの営みにも関係するある1つの愛情なんだなって思います。

  

また、写真撮影という行為はどの芸術よりも「情報戦」だとも思います。一番重要な事は被写体となる対象を「よく知っている」ことです。「知っていること」が土台にあって、その上に「目的を達成する機材」があって、最後に「技術的なこと」が乗っかってあなたの作品ができます。道具と技術は再現性や確実性を高めるために必要ですが、そもそもの「求める状況」が発生していないといくら道具や技術があっても撮れません。

   

例えば、風景写真なら、こうです。その土地についてよく知っていないと、素敵な写真を撮れる場所が分からないし、気候的・地理的条件について知らないと狙い通りの時期を予測できません。動物を撮るならどうでしょう。その動物の生態について知っていないと、その動物の在りのままの姿も驚くような一面も見られません。人を撮るときは?その人がどうすれば最もいい表情を引き出せるのか、どうすればその人を笑わせたりリラックスさせたりできるのか、どうすればその人の良さや「らしさ」を引き出せるのか、その人についてよく知らないとできないことです。情報とは即ち「その瞬間」に辿り着く為に必要なもので、在りのままの対象を理解しようとするために愛情を持ち向き合うことで得ることができることなのでしょう。

   

そして「理解」という行為でも、「理解すること」ではなく「理解しようとすること」と表現したことにも理由があります。「理解できた」ということは結果であって、「理解しようとすること」の遥か延長線上の彼方にあるからです。理解しようとしなければ理解なんてできません。また、万物は流転し、絶えず変化をします。「諸行無常」という言葉が示す通り、物質はおろか被写体と対峙し撮影を行う私たち自身の心や思いも変化を続けます。数学的に1+1=2という絶対的な真理があるけれど、撮影時のそこに私たちの「心」という変数が加わった時事象は千差万別に変化をするため、まったく同じ状況というモノは絶対に起こりえません。だから一度「いい写真」が撮れたからと言って、同じ写真を再現することはできないし、その都度「私」と目の前の「世界」について再び理解しようとしなければならないのです。

   

「いい写真」とはある意味自分自身に対する「ご褒美」のようなものなのだとも思います。真剣に目の前の瞬間と向き合って関係するからこそ感動がある種の報酬としてもたらされます。だからいい写真ってなんだろう、どうすればいい写真が撮れるのだろう、そう思い悩んだ時、「どうすればいい写真が撮れるか」のその先へ、「どうすれば目の前の被写体が最高に見えるのか。その良さを最大限に引き出せるのか」を考えるようになりました。被写体にとって最高の状況を考えた時、結果として後から「いい写真」が残るのでしょう。

  

私の為に世界があるんじゃなく、「在りのままの世界が見せるある一瞬」を記録するために私がいるんだなって。「私のためにいい写真を撮りたい」と願う時は「私自身」に関心が向いている。この時世界を愛していない。その心のままではいいモノは撮れません。

  

お金をかけて機材やセットを組むのも、時間をかけて事前調査やロケハンをするのも、全ては被写体の最高の一瞬を迎え入れるためにやることなんだ。

  

私自身、この先も沢山写真を撮って生きていくことだと思いますが、このことは忘れないように心がけています。いつだって被写体の為に写真があるんだって。私の為にそれは在るんじゃない。カメラを通して人や景色、この世界としっかり関係していくんだって。そうすればきっと、「素晴らしい瞬間」が私に会いに来てくれて、誰かの心を震わせられるような素晴らしい作品を撮れるんじゃないかな。そう想って、次もまた、カメラを構えます。

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